朝鮮三・一事件は米国が煽った暴動




           朝鮮三・一事件は米国が煽った暴動
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 韓国のソウルの西大門独立公園に有る独立門の近くのっ人々に、何処からの独立かと問うと。そんな事も知らないですか、日本からの独立に決まって居るじゃ無いですかと住民は言う。されど、碑文には別の事が書かれて居る。

조선이몇해를청나라의속국으로있다가하나님덕에독립이되어조선대군주폐하께서지금은세계의제일높은임금들과동등이되시고, 조선인민이세계에서자유로운백성이되었으니, 이런경사를그저보고지내는것이도리가아니요, 조선독립된것을세계에광고도하며, 또조선후생들에게도이때에조선이분명하게독립된것을전하자는표적이있어야할터이요. 또조선인민이양생을하려면맑은공기를마셔야할터이요, 경치좋고맑은데서운동도하여야할지라.

 朝鮮が何年も清国の属国であったが、神様の恩恵で独立され、朝鮮大君主陛下が今は世界の首脳と同等な立場となり、朝鮮人民が世界にまたがる自由な人になったがゆえに、このようなめでたいことを無視するのは道理ではない。朝鮮が独立したことを世界に知らせ、また朝鮮の後生に、この時から朝鮮が永遠に独立したことを伝えるためにも表迹(表象)が必要であり、また朝鮮人民が養生するには新鮮な空気を吸い、景色が良く静かな場所で運動をすべきである。慕華館に新しく独立門を建て、その周辺を公園にして千秋万歳自主独立した公園であると伝える志である。



 独立門の近くには迎恩門の門柱が残って居る。

 영은문(迎恩門)은중국명나라사신을맞이하는모화관(慕華館) 앞에세웠던문이다. 한성부서부반송방(盤松坊) 모화현(慕華峴), 현재지명으로서울특별시서대문구현저동에있었다. 조선시대내내새임금이즉위하여중국사신이조칙을가지고오면임금이친히모화관까지나오는것이상례였다.

1407년(태종 7년)에고려시대때개경의사신접견장소였던영빈관을본따서울서대문밖에모화루(慕華樓)를세웠다가 1430년(세종 12년)에모화관으로개칭, 그앞에홍살문을세웠다.

1537년(중종 32년) 김안로(金安老) 등 3정승이장계를올려모화관남쪽의홍살문을개축하여청기와를입히고영조문(迎詔門)이라는액자를걸었다.

1539년(중종 34년)에명나라사신설정총(薛廷寵)이 "칙사가올때에는조(詔)ㆍ칙(勅)과상사(賞賜)를가지고오는데, 영조문이라함은마땅하지않다"라며영은문(迎恩門)이라써서걸도록하여이름이바뀌었다.

1606년(선조 39년) 양차에걸친왜란으로불탄영은문을재건한뒤명나라사신주지번(朱之蕃)이와서액자를다시써서걸었는데, 해당액자는현재국립중앙박물관에있다.

1884년갑오경장의실패로일본세력과개화파들이일시적으로물러나고, 개화파김홍집내각은영은문을청에대한사대굴욕외교의상징으로보아 1895년 2월에철거하고영은문주초만남겼다.

1896년 7월에독립협회가조직되었고, 서재필은자주독립의상징인독립문을영은문자리에세울것을발의하였으며, 독립문은 1896년 11월에준공되어 1897년에완공되었다.

영은문의기둥을세웠던주춧돌은사적제33호로지정되어있다. 방형(方形)의배흘림장초석(長礎石)인데 4방의모를죽여 8각같이보이고위에는가구구조(架構構造)를고정시켰던홈이있다. 1979년에도로공사로인해독립문과함께현재의위치로이설되었다.

 1895年に日本が日清戦争に勝つと、李氏朝鮮は清国の属国としての桎梏をのがれて、独立国となることができた。(中略)1897年には、ソウルの西大門の近くにあった迎恩門が破壊されて、その場所に独立を記念する西洋式の独立門が建立された。巴里の凱旋門を模した。迎恩門は、李朝を通じて、明、あるいは清の皇帝の勅使がソウルを訪れたときに、朝鮮国王がそこまで迎え出て、勅使に対して九回叩頭する礼を行なう場所だった。今日、独立門は韓国の史蹟32号に指定されている。しかし、今日の韓国民のうち、いったい何人が、そこに韓民族にとって、はかりしれない災禍をもたらした象徴である迎恩門が建っていたことを、知っているだろうか。日本にはその歴史を通じて、大清皇帝功徳碑も迎恩門もなかった。私たちから見ると、何と羨ましいことだろうか。かつて李氏朝鮮は中国への卑屈な服従関係と、不正腐敗を覆い隠す名分として、慕華思想という言葉を用いた。誇りを失った李氏朝鮮の末路は、亡国しかなかった。


 朝鮮には志那の属国としての忌まわしい歴史が有る。朝貢するにも物産が無かったので、美人の娘と賢い学童を献上した。朝鮮が隠したいのは李氏朝鮮時代の忌まわしい屈辱の歴史の筈。日本が二審戦争で清国に負けて居たら。朝鮮は清国に併合されていたで有ろう。清国が自国の血税で近代化をする筈も無かった。日露戦争で日本が露西亜に負けて居たら、朝鮮は露西亜に併合されて居た。露西亜が自国の血税を使って朝鮮の近代化をする筈も無かった。意外な話では有るが、当時は韓国が台湾や満州より親日で有った事が判る。創氏改名で日本名で満州に行くと威張る事が出来た。されど、現代では台湾や満州より反日が酷い。反日を続けるは何を言っても許される、日本の平和憲法と利他の心の共生主義が有る。中国やロシアに対しては決して言わ無い。酷い目に遭う事が判って居る為でも有る。

 韓国が反日をすればする程に北朝鮮賛美に成るジレンマが有る。朝鮮の独立は日本が日清戦争で清国が下関条約で清国から独立した日が独立記念日の筈。3月1日が独立記念日では無い。

 일본혼슈의최서시모노세키는도쿄로들어가기위한관문으로조선통신사도이곳을통해일본을왕복했다.

1895년 3월 19일청의전권대신리훙장이도착한후 1개월동안동아시아를뒤흔들게되는회의가개최되었다. 이런협상벌인장소는현재의간몬대교인근의슌반로우(春帆樓)라는요정이었다. 리훙장은이곳에서 300m 떨어진인조지(引接寺)에숙박을했다.

일본의대표로는조슈번출신의이토히로부미였다. 이미그들은 10년전이었던 1885년톈진에서조약을체결할때면식을익힌적이있었다.

1895년 3월 20일부터회담이시작되었다. 3월 23일일본은보병 1개여단을대만서쪽펑후제도에상륙시켰다.

3월 24일, 회담장에서숙소로돌아가던리훙장이테러를당했다.[1] 이후회담은중단되었다가 4월 8일부상에서어느정도회복한리훙장이회담장에다시돌아오면서급진전되었다.

4월 17일, 강화조약이체결되었다내용은다음과같다

청국은조선으로부터종주권을영구히포기하고, 조선의완전한해방을승인한다.
청나라는랴오둥반도, 타이완섬, 펑후제도등부속여러섬의주권및그지방에있는성루, 병기제조소등을영원히일본제국에할양한다. (제2조 3항)
청국은일본국에배상금 2억냥[2] 을지불한다. (제4조) 조약발효시점부터 7년이내에총 8회에걸쳐배상금을분납하고, 기일을지키지못하면 5%의연체이자를지급한다. (이돈은당시일본돈으로환산하여 3억 6천만엔이었고, 이것은청나라의 3년치예산, 일본의 4년반치예산에해당하는큰금액이었다.)[3]
청국의사스, 충칭, 쑤저우, 항저우의개항과일본선박의장강및그부속하천의자유통항용인, 그리고일본인의거주, 영업, 무역의자유를승인한다.
1895년 4월 17일청나라와일본사이에시모노세키조약이체결되었다. 이로인하여일본은청나라가조선에대해가지는권리를모두박탈시켜대륙진출의가장큰걸림돌이던청나라를효과적으로배제하였다. 패전국인청나라는이조약으로인해, 동아시아패권다툼에서일본에밀리게되었다. 배상금 2억냥을일본에지불하였으며, 랴오둥반도와타이완섬, 펑후제도등을할양하였으며, 일본의통상상의특권을인정하였다. 하지만 6일뒤러시아가독일, 프랑스를끌여들여삼국간섭으로저지시킨다.

 条約概説

1895年4月17日に調印された日清講和条約

1895年11月8日、三国干渉の結果、遼東還付条約に調印
主な内容
清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。(第一条)
清国は遼東半島、台湾、澎湖諸島など付属諸島嶼の主権ならびに該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物を永遠に日本に割与する。(第二条、第三条)
清国は賠償金2億テール[注釈 4]を日本に支払う。(第四条)
割与された土地の住人は自由に所有不動産を売却して居住地を選択することができ、条約批准2年後も割与地に住んでいる住人は日本の都合で日本国民と見なすことができる。(第五条)
清国は沙市、重慶、蘇州、杭州を日本に開放する。また清国は、日本に最恵国待遇を認める。(第六条)
日本は3か月以内に清国領土内の日本軍を引き揚げる。(第七条)
清国は日本軍による山東省威海衛の一時占領を認める。賠償金の支払いに不備があれば日本軍は引き揚げない。(第八条)
清国にいる日本人俘虜を返還し、虐待もしくは処刑してはいけない。日本軍に協力した清国人にいかなる処刑もしてはいけないし、させてはいけない。(第九条)
条約批准の日から戦闘を停止する。(第十条)
条約は大日本国皇帝および大清国皇帝が批准し、批准は山東省芝罘で明治28年5月8日、すなわち光緒21年4月14日に交換される。(第十一条)
調印
清帝国欽差頭等全権大臣李鴻章(北洋大臣直隷総督)
清帝国欽差全権大臣李経方(欽差大臣)
影響
伊藤博文全権が起草・調印したこの条約によって李氏朝鮮は清の冊封体制から離脱して大韓帝国となり、第26代の高宗が中国皇帝の臣下を意味する「国王」の称号を廃して、はじめて皇帝と称することとなった[要出典]。
後にロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉が起こった。




 独立宣言

タプコル公園にある独立宣言書のモニュメント
独立宣言は、以下の一文から始まっている。

吾らはここに、我が朝鮮が独立国であり朝鮮人が自由民である事を宣言する。これを以て世界万邦に告げ人類平等の大義を克明にし、これを以て子孫万代に告げ民族自存の正当な権利を永久に所有せしむるとする。
タイトルに、そして冒頭の一文に明確に述べられているように、この宣言書は何よりも朝鮮が独立した国家であること、及びその国民である朝鮮人民が自由であることに重きを置いたものであり、そしてそれは「人類平等の大義」と「民族自存」という原理に基づくものとして捉えられている。この他、朝鮮という民族国家が発展し幸福であるためには独立を確立すべきこと、そしてそのために旧思想・旧支配層・日本からもたらされた不合理なものを一掃することが急務であること、朝鮮の独立によって日本及びそこに住む人々との間に正しい友好関係を樹立することなどが宣言の骨子となっている。

一読して分かるように、非常に理想主義によって貫かれた独立宣言文であった。特徴的なのはその戦闘性の希薄さであって、日本に対する独立宣言でありながら、その日本に対し真の友好関係樹立を呼びかけている。これは三原則の一つ非暴力理念を反映した結果といえる。

こうした理想主義的な独立宣言に対し、抽象的で具体的な行動指針が示されていないといった批判がマルクシズム的歴史学から寄せられたこともある。しかし現在では多くの民衆を動員せしめた点で、その意義は大きく評価されている。

運動の広がり
発端となった民族代表33人は逮捕されたものの、本来独立宣言を読み上げるはずであったパゴダ公園には数千人規模の学生が集まり、その後市内をデモ行進した。道々「独立万歳」と叫ぶデモには、次々に市民が参加し、数万人規模となったという。以降、運動は始め朝鮮北部に波及し、その後南部に及んだ。結果、朝鮮半島全体に広がり、数ヶ月に渡って示威行動が展開された。これに対し朝鮮総督府は、警察に加え軍隊も投入して治安維持に当たった。

規模
3月から5月にかけて集計すると、デモ回数は1542回、延べ参加人数は205万人に上る。そしてデモの回数・参加人数が多かったのは京畿道や慶尚南道黄海道平安北道などの地域であった。地方都市でデモを行う場合、人が集まる「市日」(定期市が立つ日)が選ばれ、通常より多くの動員ができるよう工夫された。

運動の担い手と形態
運動の初期には、その発生は大都市に集中し、担い手は学生や教師といった人々が主導した。しかし運動が広がりを見せ、地方都市や農村に舞台が移るようになると参加する人も多様となり、農民や労働者、商工業者、官僚、両班などが参加するようになった。

運動の形態には、デモ行進、烽火示威、同盟休校、同盟罷業、独立請願、閉店などがあった。独立宣言にあったように当初は平和的な手段によって運動を行っていたが、次第に警察署・村役場・小学校等が襲われ、放火・投石・破壊・暴行・惨殺も多数行われ、暴徒化していった[4][5][6]。これに関して、「暴徒化した理由は日本側の弾圧が激しくなったための抵抗である」という意見や、逆に「暴徒を鎮圧するために多少の武力を使うことは、どの国でも行われる当然のことである」とする意見[5]などがある。

被害
襲撃による日本側の被害を挙げると、人的なものは官憲の死者8名、負傷者158名であり、物的なものは駐在所159(警官のもの87、憲兵のもの72)、軍・面事務所77、郵便局15、その他諸々27であったといわれる。

日本の対応
日本側は憲兵や巡査、軍隊を増強し、一層の鎮圧強化を行った。それはこの運動を短期間で終わらせることで、パリ講和会議における不安定要因を除いておこうという考えからであった。犠牲数には立場によって一定ではないが、当時上海に亡命しており伝聞の情報であると本文中に書かれている朴殷植の『韓国独立運動之血史』によれば、死者7509名、負傷者1万5849名、逮捕された者4万6303名、焼かれた家屋715戸、焼かれた教会47、焼かれた学校2に上るという[7]。他方、日本の警察は運動に関しては平和的に対処し、破壊や殺人が発生した場合に武力で鎮圧したもので、韓国側の歴史記述は日本側の鎮圧ぶりを膨張している面があるとの意見もある。

こうした中、いくつかの悲劇が発生した。最も有名なのは堤岩里事件である。この事件は4月15日に堤岩里の住民30余名を教会堂に集めて一斉射撃の後放火焼殺され、他にも日本側が放火し15村落317戸が延焼し、39人が亡くなったというのが全貌である。日本側では「検挙官憲ノ放火ノ為類焼セルモノモ尠カラザルコトヲ確メタリ。・・・之が処分ニ就テハ殺生ハ止ムヲ得ザルモノニシテ放火ハ公然之ヲ認ムルハ情勢上適当ナラザルヲ以テ火災ヲ表面上全部失火ト認定スルコトトセリ」(憲兵司令官より大臣宛電報4/21付け)と上に報告している[9]。

この他の悲劇としては江西事件、砂川事件、密陽事件、孟山事件、陝川事件、定州事件、南原事件、京畿道狩川及び花樹里の焼き討ち、ソウルの十字架虐殺事件などがある。

以上のような運動鎮圧中に、死を迎え、特に人々の記憶に残った女生徒がいる。故郷の天安で独立運動を行い、逮捕・起訴後懲役3年の有罪判決を受けてソウルの西大門刑務所に収監され、獄中で死去したという梨花学堂学生柳寛順(ユグァンスン)(当時17歳)である。彼女は、後に「独立烈士」として顕彰され、韓国ではフランスの国民的英雄ジャンヌ・ダルクになぞらえ「朝鮮のジャンヌ・ダルク」と呼ばれ、現在まで尊敬を集めている。一方で、彼女についての実際の記録はほとんどなく、膨張され過ぎて伝えられてきたと指摘もされている[誰?]。柳寛順研究家の任明淳は、「柳寛順の最終刑量は、懲役7年でなく3年だった」と主張し「いい加減な事実が広まっており、子供向けの伝記にまで膨張した話が掲載されている」と問題視している。

 高麗連邦の民族統一の為に、朝鮮三・一暴動事件を政争の具に利用して居る感が有る。今年は記念の百周年。済州島四・三事件北朝鮮の赤化工作を懼れたのに、今や高麗連邦構想が有る。其の内日本に賠償と謝罪を言い出す。


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